無感覚物体=架空のダンス               
 
1.
 疾うに(有用の)感覚を無くした様々な廃棄物たちの、奇怪な「マグマ骸体のダンス」。泥に塗れ地核のマグマの焔に包まれ焼身体が悶える。・・・そう、イメージはつねに架空だ。「架空のオペラ」として了解しつつ、地底に通じるであろう川岸の漂着物たちの跳梁を舞台の光景を見るように幻視する。いずれ暗闇からは回復し幻視からも転換するであろうか。冷徹な非幻視の眼=写真を重ねる。「日蝕の森」、偽夜の舞台でオペラが始まっている。
 地を這い物に密着すること、この端的な身振りは写真においてはいわば生来の 「写真の本能」 なのかもしれない。物と密着する欲望と同程度の禁忌の本能に関わるとはいえ、比喩としてではなく非幻視の冷徹な力としての本能なるものがあるのかどうか知らないが、大地を計測し触り抉るように、非幻視の眼を突きつけそこに眼と物の触覚を直に感じるとして、また非幻視の眼なるものに架空と暗喩を暴く能力が本当にあるとして、そのことをもって何が残され明らかになるのか。眼に親しんだあのイメージたちの跳梁は何なのか。密着を欲する写真の眼が底なしの本能に惹かれ幻視の迷路を彷徨う。そこは冷たい地底だ。きつと大地との接地帯でもあろうに。
 不気味なものたちの跳梁する地帯だ。しかし写真に向かい、直截なその様相はむしろ蝕まれた記憶・忘却を優しく後景に斥け且つ包むように、執拗に広がる その何か が、架空の煙のように立ち昇る、と俺は感じた。反省と命名の暇もなく忘却の言訳も嫌悪ゆえの忌避を招くこともない、つまり実体の属性についての納得に還元されることはない、何か。視線の中では不気味な実体らしいが、実体と等価であるとはいえなさそうな意識の薄い煙が謎のように揺らぐ。

 語を否定する語 のように、つねに取り残される暗喩の根深さというものがあるのかもしれない。暗喩の謎は暗示さえ出来ないはずだとすれば、〈不気味な〉という形容詞を伴い写真に立ち昇る意識の煙とともに、その意味を離れつつ、否そのとおりにつねに留保され漂い底なしの暗箱の中で謎の光源のように果てしなく跳梁する。


 
2.
 日蝕に襲われ沈んだ太陽。昼という偽夜。森は凶暴な運命に弄ばされた。架空なんかではない、正真の悲劇の偽夜だ! 俺にはそのように見えるこの昏いオペラの中で、地底の「無感覚物体」=架空が主役の演者であるかのようにのたうちまわる。光る。あえていえば、非架空である偽夜の運命において、厳然とした結果としての無感覚物体=死体が起き上がる。あたかも留保され漂う亡霊が、運命に抗い俺は死んではいないと証明する台本を欲し懇願するかのように。
 俺は確かめるために繰り返し問う。陶酔なのか凝視の中なのか。沸き起こる地底の幻視の視線。地底の魂が放つであろうような虚の光に酔う。物体への反射光ではない謎の光源そのものの只中にいるかのような錯覚があるとしても、そこに取り込まれ光像と光源の循環が終わらないのは俺がいわば自失の演者でもあるからなのかと訝かる。写真の中で、不浄を隠す昼の身振りさながらに暗幕を被りガラスあるいは液晶の画像を仔細に検分しながら、俺は明らかに虚像を幻視する観者になりきっている。俺は鉄面皮の仮面の下から夢を覗いているのかもしれない。おのれの夢を夢見る者 のように。相変わらず深い森の中の日々だ、と言う。酷薄な日蝕の舞台は終わらない、とも言う。暗い部屋の中で聞く、中性の昼の声のようでもある。



 
3.
 変哲もないフアインダーの中からか、針、光の針が押し寄せる。痛くはない。だからフアンタジーと見紛う錯覚の中であれ、あくまでも望む通りに幻視といえるからには、やはり錯乱とは対極の反省と明晰さをともなうはずの 作業者の視線 があってしかるべきだ。幸いにも作業者の写真視線は架空ではない。そして幻視を見透かすその視線はどんな大義も容赦なく振り捨てるほどに、あまりにも至近の現実に、厳格に接している。無に等しい光の裸針。近い? 遠い?……否、定義はいつも曖昧なものだ。

 深い夢の中、闇の迷路の中。肉体を離れたマグマ光源体、衝突する光像と裸視線。……悉く架空の視線ではないか! 亡霊の? 夢が夢を見る ように、至近のおのれの脳の底、本能なるものの底の様相を見る?これは本当のことだ。
 否、何と言おうと、写真は元々白けたものだといっていい。無覚の暗箱を一杯にする凡庸な「無感覚物体」そのものだ。森を跋扈するあらゆる大義の暗喩を一挙に無効にする、非幻視の虚像であることも間違いない。至近の存在どうしの衝突が放つ輝かしい虚光であることも間違いない。
 有用の属性を失った無感覚物体(=死体?)の実・虚像が、「語」でいう亡霊の正体、あるいは嘗ての物体同士の原初の衝突と燃焼の痕跡、その記憶や愛といわれる暗喩の正体なのかどうか、試しに地上を行き交う昼の有用と大義の声に聞き給え!

  








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撮影場所   東京 荒川川岸
撮影     1991-1995
フィルム   TMY
現像     二浴現像
レンズ    ローデンシュトック、シュナイダー
カメラ    リンホフ ホースマン  4×5 6×9
デシタル変換 EPSON 2200 GT-X970
画像補正   PHOTOSHOP CC2021 LIGHTROOM CLASSIC   2022

プリント   EPSON PX5002   SC-PX5VⅡ
ペーパー   GEKKOシルバーラベルプラス  
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無感覚物体        1991―2020       BASE  KOBIKI
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