〈本文抄録〉
森田一朗は、地名と撮影日を刻印した変哲もない写真のファインダーの中を怪しげにそして愉快に歩き続ける。森田一朗にとって怪しさは写真の紙一枚を覆せる手品のように奇妙さと愉快につながる。属性に頓着しない明るい像を追い散歩者は白昼夢の中の散歩者であるかのようだ。どこまでが写真のフアインダーの中なのか。人物たちの仕草は昼の普通の文脈から中断された奇怪な身振りだというのに違和感もなく白昼夢の舞台の上でのように当たり前に振舞う。路上のバケツの上に立つ行為が日常の必要な仕事の一部であるのか、真面目に問うことは無意味だ。
白昼夢であるはずはない。「俺はカメラマンだからね」というセリフがトリックに満ちた魔法の合言葉のようにも聞こえる。昭和の闊達な光、「自由の時代の光」などというその他あらゆる定番文言の引用は滑稽で色あせる。定番文言を勝手に言わせておいて、その文脈に還元されない白昼の光景と眼差しを頑なに防護しながら散歩者の夢は写真の中を浮遊し止まない。散歩者はそのことに「面白いねえ!」と感嘆する。妄想ではない、ひたすら合法的な地名空間を歩く巧妙な散歩者だ。勝手な属性窃視などとは無縁だ。それどころか彼は地名も被写体人物の固有名もおろそかにしない礼節紳士のカメラマンだ。ひと様の行為の訳を勘繰るなんて失礼だ、承知の上で人々が半ば酔狂の夢遊病者であろうと彼は厳かにシャッターを押す。名刺を丁寧に配りながら路地を隈なく踏破し彼の中で自立した夢を記録する魔法のトリックをたっぷりと遵守する
三度笠のおじさん石井勇が見えをきり「世界を真正面から捉えている」! 路地裏とそこで演技する自分を写すカメラをまなざすことにおいて彼は、真正面から世界を捉える真剣な眼差しの肖像を手にしたことになる。白昼の路上における真剣な眼差しが「あわき夢」を追うかのようだ。路上の主役と路地裏はカメラのおかげで夢の世界に格上げされる。この滑稽な様態が真面目なパラドックスだとしたら演技こそが王道だということになる。ますます混乱する。明らかにおどけた仕草なのに森田一朗は少しも笑っていないどころか、演技に没頭する真剣な同格の演者として、演技を励まし強調し「世界を7真正面から捉え」る撮影に夢中だ。森田一朗も間違いなく路上で真剣を構えている。
とはいえ三度笠おじさんと森田一朗は路上の挨拶は別にして世上の交誼を交わしているわけではない。おじさんの眼差しはむしろ見知らぬ顔と相対し見つめている。見知らぬ顔を見つめ構えた刀は見知らぬ顔への防衛と攻撃の用具だ。自己防衛と踏み外し、攻撃という存在の核心、存在の真面目極まりない核心を、滑稽な路上演技として示すとなれば、三度笠おじさんと森田一朗は最高の演技者だといえるが、写真は、承知の上で、この栄光の仕草を日常の下町路地裏の雑然とした点景として示す。
パラドックスは驚きの仕組みなのだ。なにしろ両者は度外れではあるが正統派日曜旅烏、王道を行く散歩者だ。両者は、他者をまなざすことにおいて文字通り真剣を煌めかせ、そして度外れの滑稽を真剣に地でゆく。それはとりわけて肖像写真において写真行為につきまとう芸の宿命なのかもしれない。
「旅烏スタイル、三度笠のおじさん石井勇は踊る。山谷いろは会商店街付近にて。1992年7月。」