星は通常、星座をなす。瀧口のいう「夢の波に漂う星屑」は不死・フェニックスの星座をなしているとされる。だが「ぼくのなかの星」でもあるかもしれないフェニックスは、「フェニックス星座」と名指されたその時いのちを失う。なぜならばそこで詩の夢は終るからだ。代わりにあたかも目覚めたかのように、ひとつの伝説・信憑であるフェニックス星座が地上に降り立つ。すなわち万古の文明の星座は数多の伝説とともに昼の法則発動のア・プリオリな要因となる。そればかりか星座的掟の焼き鏝は夢地にさえ星座の痕跡を残す。フェニックスの灰熱が夢を焦がしている。この不死の焦熱がきっと「ア・プリオリに」夢をも突き動かしているんだ。
夢の星座からア・プリオリに生まれ飛び立ついのちなき鳥。詩人は亡霊の妖力に惹かれるようにこの鳥を追う。星座の星運を刻まれた鳥の眼は地上に何を見るか、と。死人の眼ともいえる鳥の眼が俯瞰する光景、それは厳格な星座の規7律が地上を覆う死せる記号の光景だ。瀧口は地上の光景について、「水色の空に描かれた蜘蛛の巣の地図とその繁栄の都市よ」と半ば象徴的に半ば示唆的にいう。この形容は記号に対抗すべきたんなる修辞ではない。冷徹な鳥の眼が写す地上とは、地上のすべてをおのれの足下に敷き緻密きわまりない捕虫網の敷設図、修辞とは無縁の電子細密画と記号的認識の大伽藍、その可能的認識の見取り図だ。空に描かれた蜘蛛の巣の地図に似た客観的認識の脳髄襞は、聳え立つ都市塔群の無窮の拡がりとその配管細部をも詳らかにするだろう。甘美な痙攣が襲う。「ぼく」は「ぼくのなかの星」に刻まれた固有の襞を震えながら覗く。
探求のすべては、一種のウロボロス的循環に嵌りつつ、己れのいわば内臓感覚に触るような基底的な自己言及の表出にほかならない。覚めない夢の中なのか外のことなのか。尽きない自己言及の果てに「ぼくのなかの星」が取り出される。「ぼく」は懐かしいあの不死鳥の目玉にも似た星のガラス玉を掌に包む。指先が増幅やまない内臓触覚に慄く。おお、懐かしすぎて鳥の生死は「ぼく」にはわからない。
掴みどころのない影像として「霊感の肉体」が亡霊然として留まっている。そいつは己れの影像なのに手の届かないひとつの無感覚物体なんだ。執拗な亡霊、生きているミイラの「霊感の肉体」、硝子の網膜に冷然と宿る無感覚物体、しかし自己言及ゆえにもがいても距離のない内臓触覚に等しい無感覚物体だ。
『王族の剣と内臓触覚を夢見る硝子シーツに包まれた眼球』 より
〈本文抄録〉
血だらけの『姿なき散歩者』
御者は鞭の嵐を馬の背に浴びせる。舗石を鮮血に染めて馬がどうと倒れる。群がる人々。血の海の中で馬の首を抱く。「その中にすべてを見ている眼」がある。よく知られた箇所だ。カフカの『姿なき散歩者』は、あらゆる風景を隈なく眺めるばかりではなく毛穴に風を通すように肉体を全開して世界の中に組み込まれている。継ぎ目のない観察者の目、潤滑な振舞いと連結の語。おかげで周囲からどんな種類の疑惑も受けない完璧な存在を開く。存在における完璧な受動連結手としての肉体、目は風を通す受動透明者の目だ。
〔姿はない。しかし散歩者は「かつてではなく」「ここにいる」。あらゆる風景と毛穴による完全受動者の「今」。この普遍を徹底する。すると形も肉体もなく見えそうで見えない。驚くことなど何もないはずだ。この意味に寄り添うようにさえ振舞う。振舞は私はうそつきだというアルトーのように強がりにも見える。翻って問う。平凡な光景のほかに何があるのか。もういちど目をこらす。交差点を急いで渡る老婆。血の海の中で馬の首を抱く。そのために散歩者は血だらけだ。完璧な行為の透明の中に完全受動者のあらゆる感情が込められている。散歩者と言われることにも苛々する。〕