2017.5.2(火)

 さて、例の安倍公房『公然の秘密』について。沼地から這い上がる飢え
た仔象をめがけて橋の上の群衆が「可哀想だ」と食べ物を与えるつもりでじつは真逆の期待をこめてマッチやガスライターを投げつける。仔象は感謝の表情でめぐみものを口にしついに「古新聞のように燃え尽きてしまう」。この情景に続く安倍公房の衝撃的な言葉が先の「『弱者への愛』には、いつだって殺意がこめられている」だ。一見して「弱者への愛」というスローガンの欺瞞と群衆の残酷な行為を告発しているかのようだ。だがこの短編のどこにも「残酷」だという非難の言葉は見当たらない。殺された仔象にしても酷い仕打ちに抗ったわけではない。公房はこの事態に上の評言のほかに特別の解釈を加えてはいない。つまり『公然の秘密』のタイトルとおりに事実をあからさまにしただけだといわんばかりだ。秘密とはいうまでもなく「弱者への愛」のことだ。しかし暴かれない秘密、謎だとしても、愛を裏切り残酷な弱者いじめだとあまりにも単純に告発する話だとすれば謎は謎でなくなる。平凡な社会的事件として法が登場し文学はドキュメンタリーに堕する。公房が簡潔な描写で口を噤んだのは謎を謎として温存させるための戦略なのか。

 「公然の秘密」の裏に隠された沈黙の刃を光らせているとも読める。すなわち「弱者への愛」とその欺瞞という受けのいい仕立てに刃を突き立てその背後で公房はもっと大きな関心の的であるべき地平を語らずに示しているのか。象ははじめは骨、怪物あるいは植物めいたものとして形をあらわす。公房の文学世界の地平は、この不可解、奇異な心象、世界の表層において語られる。せいぜいマッチを弄び喜んで死んでいく象と快哉する群衆の関係は、空しいスローガンとお祭り騒ぎの中で絶頂に達する慰めをむしろ必然とする(欺瞞の)いわば出来レースみたいなものだ。世間の合意の前提である弱者への愛とともに怪物相手の殺意も不問のまま公然の出来レースとしての表層に覆われ、作家の目には謎は逆に怪物めいた現実の地平におぞましく繰り広げられていると映る。まさに公然の秘密として。

 ところで現代は「弱者救済」をめぐって動いてきたとすれば、公房が「弱者への愛」というスローガンを槍玉にしたことは別の意味でも大きいと思うのだが、何十億人の何十億倍もの人類を動かしたこのテーマにいつか取り組むことが出来るだろうか。いやその前に、涎を垂らして一言でいう「弱者への愛」が殺意であるという真意とは、テクストでもなんでもひとまとめに括ることへの強烈な非難と軽蔑だと読めないだろうか。愛を語るのなら、飛ばし読み、無難なひとまとめではなく、一言一句おろそかに出来ないはずだ。
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蒼月日乗 1

蒼月日乗 1
2017年4月27日~
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